ガラにもなく生死について
考えてしまったネオFP藤井です。
「もう死んだ方がマシだ」
そう感じさせるような恐ろしい
出来事が昨日ありました。
実はね。
昨日、義理の祖父母の病院に
行って来たんですよ。
https://goo.gl/5YolbZ
なぜかって?
【お見舞い&ひ孫の初対面】
ここが目的でした。
僕自身はかなりお婆ちゃん子なので、
お婆ちゃんが困っているのを見ると
無性に助けてあげたくなります。
でウチの義理の婆さんなんですが
今年に入ってからカラダの調子が
悪く入退院を繰り返しているんですよ。
アンパンマンより元気100倍
この婆さんは愛方の実家に暮らしていた
80後半なんですが、元々商売人ですから、
元気100倍のアンパンマン級の方で、
僕が結婚する5年ぐらい前までは
バリバリ軽自動車に乗って自分で
ガンガン買い物に行くような人でした。
だけど、いつだったかな?
恐らく3年前ぐらいだったと思うけど、
痴呆が悪化してきてうちの愛方(孫)の名前や
実の息子の(義理の父)の名前も忘れてしまう
ぐらいひどい状態になってしまい、老人ホームに入りました。
で、今年に入って体調を崩しているという流れ。
僕自身も義理の婆さんに会うのは
2年ぶりとかで、久々に会うと、
体調が悪そうでベッドに寝転んでました。
(当然、僕の事はおろか愛方の記憶さえもありません)
ただ、娘(ひ孫)の顔を見ると
凄く嬉しそうにしてくれたので、
なんともいえない安堵感がありました。
孫の最高の祖父母孝行は子どもを見せる
早く良くなって今度は抱っこをして
もらいたいと思ったんですよ。
で、ココまでは普通に良い話じゃないですか?
今日はここからが本日の本題です。
僕が伝えたいのは、
その婆ちゃんの回りにいた
病室の回りの人達についてです。
高齢者の現実
恐らく80代とか70代の意識のない
人達だったと思うんですが、
病棟を歩いていると
何人か病室の中が見えたんですね。
カラダ中がチューブにつながれ、
寝ているのか?起きているのか?
死んでいるのか?
ハッキリしない状態で、
カラダはやせ細り
誰が見ても自足歩行は無理な状態。
「もし、それが俺なら死んだ方がマシだ」
大変不謹慎な発言ですが、
正直そう思ってしまいましたね。
“魂の抜けた人間”
お年寄りや重篤患者さんに
そんな事を言うとバチが当たりそうですね。
でも、僕は申し訳ないけど
そう感じてしまいました。
藤井さんは血も涙もない人間ですね。
そう思われても仕方ないです。
だってそう感じたから。
たぶんですが・・・
そこにいる爺ちゃんや婆ちゃんって、
山の上にある病院だから、
毎日親族がこま目に面会に来れる場所でも
ないと思うんですよね。
そうなると、病院の看護師さんが
毎日いるとはいえども、
家族への安心感とは掛け離れているわけで
かなり孤独なんじゃないかな?
僕がその立場なら・・・
「頼むから生かさないでくれ!」
本当に!本当に!本当に!
マジで不謹慎な発言ですが、
リアルにそう思いました。
昨日は、普段、僕が目の当たりに
する景色ではないので、
【肌感覚で感じる現実の残酷さ】
みたいなのを垣間みた気がしました。
廊下を歩きながらそんな人を
何人も見てしまっていると、
僕自身なんだか怖くなって
しまったんでしょうね。
背中や腕ザワザワ〜ってさぶイボが。
なんだか“ゾッと”してしまいましたね。
その時に抱っこしていた娘を・・・
思わず強く抱きしめてしまいました。涙
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生が生としてあり続ける
意味は一体何なんだろうか?
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意識さえもまともにないのに
生かされている状態になんの
意味があるんだろう?
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人生の散り際とはなんなんだろうか?
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「藤井さん!今日のメルマガ
宗教の勧誘みたいでキモチわるいっす」
っと言われそうなので、まとめますね。
生きるの目的というか、生きる意志みたいな、
活力や精力を全く感じられなかった。
病院に身を投じる事で、
僕があらためて感じた事は・・・
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・今、元気に仕事ができている自分に感謝
・家族が支えてくれる事にも感謝
・生きる目的を持って「今死んでも悔いはなし!」
と思える選択をし、常にダイナミックに生きる事
・時には死を感じるリアルな場所に
身を投じる事で自問自答をしてみる事
・医学的倫理観ではなくて、
自らの人生観で散り際を美しいものにする事
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そう感じた一日でした。
「あなたは最近死を意識しましたか?」
本日の感想もコチラで待っています。
(広島市西区自宅の和室コタツの中にて)